私は小、中、高、大学時代にわたり、
ひどい車酔いだったことは以前書いた。
それなのに年に4回、季節ごとに
自家用車に押し込まれ、墓参に連れていかれた、と。
いまの私ならば、このような状態の私に対して
このようにアプローチするのに、というところを
今回は書いていく。
当時の私は、
「車酔い」を強烈に意識していた。
意識するがあまり忘れることができず、
「車酔いする」という呪縛から逃げることができない。
この呪縛から自由にさえなれば、
車内での時間をもっともっとラクに過ごすことができたのに、と思う。
当時の私は一面的に「車酔い」を見ていた。
「車酔い」をデメリットしかない事象としてみていた。
どんな物事にもメリットとデメリットの両方が備わっている。
それがこの宇宙の法則であり、絶対の真理である。
デメリットしかない事象など、この世に存在しない。
だから、今の私であれば、
『「車酔い」することにより得られるメリット』を見に行くワークを
施すだろう。
これはそんなに簡単なわけではないし、相当な集中力がいる。
なぜならば、今まで見えていなかったものを見に行くワークであり、
脳のなかでつながっていないシナプスをつなげていくワークになるからだ。
場合によっては苦痛を伴うものになる。
苦痛を伴うものにはなるが、もし臨界点を超えて
「そうか。車酔いはこんな恵みも与えてくれていたんだ!」というアハポイントまでたどり着くことができれば、「車酔い」に対する認識が180°変わることになる。
そうしたら、極度に「車酔い」を恐れ、意識することがなくなる。
これが、私の言う「車酔い」から自由になる。ということだ。
このワーク、ファシリテイトにはファシリテイターの経験と力量がいる。
自分で試みるのは極めてハードルが高い。
ただ、この認識に至るとガラッと見られる事象が変わることになる。
人生が変わるといっても過言ではない。
執着から離れた、軽やかで自由な認識をもっていたいものだ。
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