営業職を下に見ていたころ

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大学を卒業して最初についた仕事は

カメラ量販店でのカメラ販売員だった。

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私は大学卒業時に希望の就職をすることができず、

就職浪人という形で自活を始めた。

実家を親父に追い出されたのだ。

私は当時マスコミ就職を希望していた。

新聞社でも出版社でも編集職が上で、

営業職は下。当時の私はそう考えでいた。

そして「編集職」でのマスコミ就職を希望していた。

ただ、この仮面浪人生活は、思いのほか長引くことになる。

1997年に大学を卒業し、出版社に職を得たのは2002年のこと。

いま考えればたった5年か、という気もするのだが、当時の私にとっては

恐ろしく長い日々だった。

しかも2002年の出版社に入社したとはいっても、本命は新聞社のカメラマン

だったから、そこからも1、2年は新聞社の入社試験を受けていた。

正式に新聞社への道を断念したのは2003年だったろうか。

そしてその時には私は所属する出版社の中でも営業職に回ることになる。

出版社に入っても、当初希望した編集職にいたのは1年にも満たない時間だった。

私は二浪で入学した大学を卒業したから、大学卒業した直後に25歳になった。

そこからの二十代の後半5年間を、マスコミ就職浪人として過ごすことになる。つなぎとしてのカメラのさくらやのカメラ販売員をしながら。

マスコミ就職活動はなかなかうまくいかなかったが、その一方で、カメラ販売員としての実績は周囲の目を見張るものがあった。その、私のカメラ販売員としての力量は、カメラのさくらやからヨドバシカメラに移って、さらに輝きを増していくことになる。文字通り、周囲の人が驚くような売り方ができるようになっていった。

その後、紆余曲折を経て私は、教育系の超営業会社に職を得ることになる。

ペンタックス販売員として過ごしたカメラのさくらや時代、

京セラの販売員として過ごしたヨドバシカメラ時代、

そして教育系の超営業会社、教務社員時代、

時を追うごとにノルマの厳しい会社で揉まれることによって、

私は徐々に数字の取れる営業マンとしての自分に自信をもっていった。

二十代のころは、マスコミ就職がうまくいかないことばかりに焦点をあて、

つなぎでやっていたカメラ販売でいともカンタンに数字を作れる自分の特技を意識に挙げることは特になかった。

時を経て、今の私の認識は以下のような感じである。

営業というのは、相手にウンと言っていただく仕事であり、そこに最大の喜びがある。

思えば、相手にウンと言ってさえもらえれば、幸せな人生を送ることができる。

異性を食事に誘って、相手にウンと言ってもらえれば、デートに行くことができる。

結婚したい相手にウンと言ってもらえれば、理想の相手と結婚することができる。

Aという冷蔵庫を売りたいとき、お客さんに「わかりました。ではAをください」と言ってもらえれば、トップセールスになれる。

この世のすべてがそうである、とさえ、私には思える。

だから、どうやって、気持ちよく、相手にウンと言ってもらえるか。

私がそこに割くエネルギーはとてつもなく大きい。

今の私にとって、営業とは人生そのものであり、営業職としてのスキルを磨き、人を動かす力をあげることは、人生の質をあげることと完全に一致している。

だから、今の私は、トップセールスとして大きな数字を上げることに大きな誇りと自信を持っている。

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